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生涯モラトリアム

好きなことで生きていくと言う修羅の道

私は好きなことを仕事にという言葉が苦手である。そこに扇動を感じる。

〇〇さんの話聞いて、〇〇さんの本読んで仕事辞めてフリーランスとして頑張ることにしました!などとSNSやブログで右から左にアウトプットする人は、すぐに底の浅さが露呈して行き詰まり、言った以上なんとなく引くに引けず地獄の苦しみを味わってそうだと思っている。

書いてみてわかったが完全なる偏見である。

 

私は自分が好きなことについて頻繁に疑問を持つ。極端な考え方だが、もしそれが無くなったところで私は生きていけるからだ。始めは少し退屈するかもしれないが別の何かを見つけ暇をつぶすであろう。

また、自分が好きだと思うものを何故好きなのか説明できないものが多い。私はそれが気に入らない。自分のことなのに自分でわからないとは別の何かに決められているのと一緒である。なんとなくで決めることの多い人は有神論者であると言える。ここでいう神は別に宗教的な意味ではない。果たして好きなこととは何なのであろう。

 

少し話は逸れるが心臓や呼吸についても似たようなことを考えたことがある。心臓と肺は私であるが、基本的に私の言うことを聞いていない。私の中にあれば私の言うことを聞いていなくても私、ということになるのであろうか。となると私とは何なのであろう。といいう迷路に迷い込んだ。最終的にいつも答えは出ず、私は頭がおかしくなった気がして別のことを考える。今書いているこの記事に至っても私が喋るのを止めろと思ったところで頭は勝手に喋り続けるのである。だから私はせっかく喋ってくれるならと文字に起こしている。もはや多重人格である。多重人格についても言いたいことがあるのでまた別の機会に書くと思われる。

では、続きに戻ろう。

 

昨今よく耳にするインフルエンサーフリーランス、ブロガー、少し前ではノマドなど。彼らの言う情報発信とやらを素直に受け取れない私がひねくれているのかもしれない。こんなことを言うのは勇気がいるが、殆どのコンテンツは私のマスターベーション以下である。なぜなら溢れかえったものを少し書き換えたものであり、目新しさがない。そして、誰でも言えるような代替え可能な綺麗な字で書いた習字。書き初めのようなものだ。悪く言えば便所の落書きみたいなものである。誰の字が綺麗かはわかるが、書いてあることは同じである。人間味の溢れた同じような言葉であれば個性も出ようというものだが、どうも人間味を伴っていない。

私のマスターベーションのように勝手に頭が喋り続けていることを文字に変えただけの文書ではなく、彼らは絞り出そうと努力してる印象を受ける。そして、それが出来ないから似たようなものが溢れかえっている。私のこのマスターベーションも溢れているという人はいるのかもしれないが。

とはいえ、稀に面白い発見があるので一部拝見させていただいており、参考になるものは盗ませていただいている。そういった人は殆どが扇動された側ではなく元よりやっていた側である。非常に皮肉な結果であると言えばいいのか当然の結果であると言えばいいのかわからないが、そういうことである。


人に見られることを意識した文章は、ときに面白みを殺す。

皆変わったもの、日常で触れる機会がないものを見たいのであろう。だから私は少し狂人に寄った書き方をしている。いや、嘘だ。私がこう書きたいからこのように書いてあるだけである。なぜ誰にも宣伝せず日の目を見ないブログで保険をかけようとしたのか自分に疑問である。


失礼した。話を戻そう。

そのような会社に勤めていない方の中にはサラリーマンを悪しきものだと言うような記事をいくつか見たことがある。悪しきもの、というのは少し誇張したが、「自由がない、ストレスがある、正当な評価がされない」などと言って自分の現状と比較し、自称縛られない働き方を誇る。しかし、自分がその働き方に縛られていることには目を向けない。そして、そんなところを選んだ自分のことはあまり省みない。そんなところというのは以前の職場のことである。

少し極端な話をするが、もしやりたいことがあった場合にそれを達成するために会社に勤めることが効率のいい手段だとしたら当たり前だが皆勤めるであろう。

働き方改革なるものが世に浸透し始めており、フレックス制度などを導入している会社も増えてきている。有給や残業についても厳守する会社が増えている。サラリーマンにも自由はある。

また、勤めいても実力があればある程度は自由に仕事ができ、ストレスもなく、正当な評価もされる。でなければ資本主義はとっくに潰れている。

ましてや、こちら側は仕事を選べるのである。辞めるも働くも自由である。良い部分だけ使ってやればいいのである。出がらしは捨てて新たな場所へ移ることができる。ここでいう良い部分とは資金、人、ツールなどである。人に回せる仕事を任せられる人がいる。そこに給与だ時間だなんだと時間をかける必要がない。業務を管理するソフトも元々ある。説得させられるだけの内容があれば、好きなことを会社の資金で行なうことができる。ノウハウを盗むために勤めるのもいいであろう。

しかし、こうは言ってみたもののそれが出来れば個人でやってもこのご時世うまく行きそうな気はする。その熱意から人を手繰り寄せることも可能であろうし、クラウドファインディングもある。

前提として、熱量や覚悟があれば、もはやどちらを選んだところであまり変わらないのではないかとすら思ってしまう。


ここまで長々と書き連ねてはいるが、かく言う私は特に何もしていない。というより熱意も覚悟もないのである。それを自覚しているだけマシだと思っていただきたい。強いて言えばこのブログでマスターベーションをしているくらいである。私は自分が熱意や覚悟を決めることが出来ることに出会うまでは手当り次第に触り暇をつぶす。


私は自分の言葉にある種の自信を持っている。右から左に流すのは私の美学に反する。前述した字の綺麗さで勝負しようなどとは微塵も思ってはいない。これはただの独り言の垂れ流しであり、あくまでマスターベーションである。これは自信とは結びつかないようにも思うが、私は自分のマスターベーションが気に入っているのである。


そろそろ締めたいと思うが、色々と皆さん思うところはあるとは思う。私は基本的に逆張りが好きなようで流行りを悪だと思う節がある。実際に悪だと思っているかは疑問が残るが、そう書いてしまった以上そういうことにする。

そのような流行り、マジョリティに関してそれに乗れない、利用できない自分への慰めでしかないので気を悪くはしないで欲しい。

そして、私は自分の安全な範囲内でしかデカイ口を叩けない卑怯者なのでそこも考慮してほしい。この記事に関しても私は自分がどこの誰かわからないから書けるのである。全く知らない人ならいいが、もし知り合いにでも見つかった日には、私は恥ずかしく思ってしまうタイプの人間なのだ。最後に全く意味のない自己擁護を書いてしまって後味が悪いが終わりにしようと思う。

どうも私のマスターベーションに付き合っていただきありがとうございました。