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生涯モラトリアム

アジア堕落旅行記

この記事は向こうにいたときのメモと帰国後のメモの抜粋。

今とはまた感じ方が違うところもあるがそういうものだ。

 

06/11-06/20 香港、マカオ

06/20-07/10 タイ:バンコク、アユタヤ、サケオ

07/10-07/23 カンボジア:ポイペト、シェムリアッププノンペン

07/23-08/05 ベトナムホーチミン、ニャチャン、ダナン、フエ、ホイアンハノイ、ラオカイ

08/05-08/19 中国:河口、昆明、北京、エレンホト

08/19-08/31 モンゴル:ザミンウード、ウランバートル

08/31-09/14 中国:エレンホト、北京、成都、達州、昆明

09/14-10/11 タイ:チェンマイバンコク、ハジャイ、ランパーン

10/11-10/17 マレーシア:クアラルンプール

10/17-10/17 シンガポール

10/17-10/21 マレーシア:マラッカ

10/21-11/08 タイ:ハジャイ、バンコク、メーソット

11/08-11/08 ミャンマー:ミャワディ

11/08-11/21 タイ:バンコク、メーソット、スパンブリ、パトゥムターニー

11/21-12/05 中国:成都重慶

 

世の中に溢れてる光り輝く旅行や一人旅、バックパッカー

私が見ていたのはそんなに綺麗な世界ではない、鬱々とした旅行もある。

 

仕事を辞めたくなった言い訳に海外を持ち出した結果、得たものは「何処ででも生きていけるが、どこで生きていても退屈」ということだった。

何かから逃げるように飛び出した日本。

一旦はリフレッシュだと思い込み現実を忘れようと試みたが、結果的に失敗に終わった。

何か珍しいことが起きても一瞬で去っていく。

他人に面白さを求めても、一時的な痛み止めの役割しか果たさない。

移動時間は長い。また、英語が達者ではないため自分と話す時間がとても長い。ゲストハウスや移動中に少し仲良くなろうとも、皆それぞれの旅がある。

私の場合は旅に対して特に目的がなかった。強いて言えば暇つぶしである。

これらを踏まえて、目的の無い長期旅行は心を病むためおすすめしない。

 

以下はそれぞれの場所での印象に残ったことである。

香港・マカオ:シャブ中、重慶マンション、初長期旅行の緊張

タイ:多くの日本人、ギター、100THBのババア娼婦、インド人レディーボーイ

カンボジア:悪夢により絶叫、セックスしたら昼御飯を奢ってくれたYouTuber、レンタルバイク、ヤンキーによる捜索、初ベッドバグ、中国人との出会い

ベトナム:謎の高熱と血液検査と点滴、初日本人宿へ避難、奇怪遺産、弾丸北上、ドッペルゲンガー娼婦、現地価格、国境バスによる寝起きドッキリ

中国:再会からヒモ、ネット規制、闇宿?での謎の歓迎、寝台列車で48時間、野宿、警察に連行されたオーナー

モンゴル:モンゴリアンギャング、企画モノ、粉、行った国の数に意味は無い

中国:再会からヒモ、地元へ、誕生日、不法滞在と行方不明、通行止め

タイ:両親の離婚報告の日の夜レディーボーイを買う、謎の居候ヒモ生活、田舎に泊まろう、インド人詐欺グループとの戦い、仙人、ジャンキー、人の輪切りと6枚おろし、ギター壊れる

マレーシア:置屋価格破壊、謎の宿泊税、タイ人から罵倒のテレビ通話、叩かれても罵倒されても腰を振る

シンガポールイカれたテーマパーク、野宿

マレーシア:目立った印象無し

タイ:居候、アート巡り、初めて金盗まれる、自宅整形と謎の注射、レディーボーイで暇潰し、希死念慮、9回の自殺未遂と悪魔のタトゥー、ロシア人風俗、テーメーカフェ、ナナ、ソイカウボーイ、100THBババアとその仲間のフリークス

ミャンマー:ビザラン、鳩の死骸

タイ:居候、アート巡り、覚醒剤と地元の集まり、癌告知、初タトゥー、地獄寺

中国:アート巡り、重慶

 

次以降は詳細。家計簿つけてたのに3度目のタイで水没した為、そのへんについては書けず。

私について

私はいつも私を欺き続ける。

実のところ、もはや欺いているのかどうかすらわからない。

誰かに対する私。相手や時と場合によって変わる私。私の意志とは関係のないところで勝手に変わる。一種の擬態なのかもしれない。

その都度、別に不快感を感じるほどではないが一人になったとき別の私が文句を言う。

恋人といるときの君、家族といるときの君、友達、職場、学校、顔見知り、他人。私や君は一人なのにたくさんの私や君がいる。とても気持ちが悪い。居心地が悪い。

みんな役者だ。身体は1つしかないのに何通りもの人生を断片的に作っている。

私は私を探し続け、隠し続け、欺き続けた結果、どんな私も受け入れなくなった。

私は、こんなの本当の私じゃないと理想の私を私に押し付ける。私はその理想の私こそ私ではないこともわかっている。

 

もういっそ外界との関わりを絶とう、極力減らそうと思ってみたが、私はそんなに強靭なメンタルの持ち主ではなかった。完全に宇宙に一人の状態で生まれたならまだしも、一度他人を知った以上難しいことだった。そしてこんな私にも優しくしてくれる人がいる。だから私は世界を恨み切ることも出来ないし捨てることも出来ない。人は中毒性が高い。

しかし、私の安定剤となる人たちも私を不安定にする。理由は上記の通り、その人たち以外のときの私も私はすでに知ってしまっているからだ。そしてどの私も私であり、それが私を嫌悪させる。

 

こういった症状がまだ軽かった高校生の時期にペルソナという言葉を知った。だからどうというわけではない。ただ覚えているだけで今の私にはなんの役にも立たない。

 

答えが出ない私は私を摩耗させるだけだと思うので今日はもう寝る。

罪悪感について

私は一時の罪悪感を感じやすいと思う。

自分の言動を振り返るといい気はしないことが多い。

そして、むしろ罪悪感を美化してるフシがある。

これは非常に良い言い訳になることを知っているからである。

実際に罪かどうかは置いておいて、罪の意識はあらゆる行動を制限してくれる。

〜をやりたい。でも〜だから出来ない。

基本的に何事も自分の中の天秤にかけて行動を選ぶ。その結果、やらなかったことは本当にやりたいことなのかという疑問が残る。

〜をしてまで〜をやりたくない。とほぼイコールなのだ。

だから私はあまり〜をしたいと言えなくなった。考えてしまうのだ。非常に生きづらくなった。

 

行動を細分化すると罪悪感は減る。

匿名にすると罪悪感は薄れる。

しかし罪悪感は残る。というか残って欲しい。

残って欲しいというのは悪意が僅かでもある場合の言動に対してだが、そうではない場合は罪悪感をあまり感じずに生きる方法を探さなくてはいけない。

罪悪感は無限に湧いてくる。当人の感じ方次第で殆どの行動は罪悪感へと繋げることができる。

この世の全ての悪は自分のせいだと思うことも可能だろう。

 

話は飛躍してしまったが、一度感じてしまった罪悪感は案外残る。

そしてそれを理由にしばらくの間、私は幸せになれるような人ではないと思うようになる。

そこはさすが人間、殆どの罪悪感は時間が解決してくれるようになっている。だからみんな平気な顔して生きている。

問題は時間が解決してくれない罪悪感である。これは正直どうすることもできない。だから私はこいつらと一緒に墓へ入るつもりである。

対処の仕方を私は知らないのだ。

軽減するのであれば他の人に言えばいいような気がするが、わざわざこんな重いようなトピックを他の人に言いたくはない。聞くことを職としてる人にならと思ったこともあるがやはり腰が重い。

それは上に書いたようにわざわざ予約してお金を払うくらいならこのなんとも言えない罪悪感によるナルシズムを抱えて生きていたいのである。

そして、むしろ私は人の罪悪感を軽くするような職になら就いてみたいと思ったこともある。しかし金を貰うことは悪的な思想の抜けきらない私なので、心を止む可能性がある。また、人による影響を受けやすいところもあるので心を壊す可能性がある。何にしても何か行動を起こす前に諦めたのである。全くもって意味のない思いつきであった。

そう思う反面、人の罪悪感を軽くしてあげたいと思っていることは真実なので更に意味がわからなくなる。

もはや、バグである。頭がおかしくなりそうだ。

 

 

犬の散歩中に書き始めてしまい、着地を考えていなかったので困っている。

お金の価値について

いきなりお金とは関係がないが

いつかやる、いつか行く、いつか見る、いつか、いつかと言って4日目に死ぬ。

私はこの言葉が気に入っている。


もし寿命を1ヶ月20万で買い取ってくれるところがあったら私は売るかもしれない。

もし1年を240万で買い取ってくれるところがあったら私は悩むと思う。


実際に私は今まで1時間をたくさん売ってきた。それによって得たものもあったが退屈な時間が多かったように思う。

現に今、私は3ヶ月を売っている。何の面白みもなければ、微塵の達成感すらない仕事だが基本的に気が散ることもなく1日約8時間、頭の中で喋れたのは良かったと思う。

何も考える暇もなく繰り返しの作業で手一杯になっていたらと考えるとゾッとする。それこそ無駄な時間となっていただろう。例え私がボルトやネジを打つのが綺麗で早くなろうともそんなこと私は望んでいないし、私にとって何の意味もない。


1分で240万を得る方法を知っている者、1年で240万を得る者。どちらの240万の方が価値があるか。

答えは同じである。

しかし、1分で済めば364日と23時間59分好きなことに使える。ただ、私はそんな手段を知らないので時間を切り売りしている。


私とは違い立派に働き、勤めている人の中で寿命を切り売りしていることを意識している人はどれくらいいるだろうか。

時は金なり、と言うが人生を金に変えるのは如何なものかと思う。勿論その生活の中で多少の不満はあれど各々満足して暮らしているとは思う。しかし、私は常に不満足なのである。時に私は自分のこの性分を病気だと感じる。きっと私はこの病気が治らない限り所謂、普通、にはなれない。


いつか私は友達に「お金とは何か?」と聞かれたことがある。その時の私は「共通の価値、例えばみんなが貝殻や花に価値を与えるならそれでいい。今は貨幣や紙幣が価値を持っているだけ。」といったようなことを答えた。つまるところ目に見える信用である。日本銀行に信用があるから価値を持っているだけでそこの信用が無くなれば使いようがない。

そこからB to BとB to Cの話になり、信用と信頼の話といった具合に話したのだが、今日の私はそれを書きたい気分ではないので割愛する。


私は仕事もお金も手段と考えるのでそこを目的としていない。どちらも何かやりたいことがあったうえでその為に使うツールのようなものである。そんなのみんなそうだと言われるかもしれないが本当にそうだろうか。私自身にもこの問を投げたい。

本当にそう思っているなら嫌な思いをしてその場で働くくらいなら別の場へ移るし、目的もなく貯金もしないのではないかと思う。

ただ、だからといって貯金は無駄とも思ってはいない。もし何かやりたいことができたとき、多くの場合お金は必要となるのであって損はない。しかし、それに縛られ耐える必要もないという話だ。こんなことを書いていて私は内心これは不定食者の自分に対しての自己正当化なのかもしれないと思っている面もある。

私には何かやりたいことと言っても特に思い浮かばず、思い浮かんでも数日経てば熱は冷める。私は今、暇をつぶすために働いているのかもしれない。


死を記憶せよ。いつか死ぬことを忘れるな。という旨のタトゥーを彫ってある私だが日々を捨てている実感がある。

私は帰国する少し前から帰国してしばらくの間、明日死ぬかもしれないとは言わないが1年後、または数年後には死ぬかもしれないと思ったらやっておくべきことがなんとなく見えた。


みんないつかを待っている。そして待っている時間に居心地の良さすら感じているかもしれない。

私は半年アジアを歩いてみたが終わってみれば虚しいものだ。私には目的が無かったのだ。だが歩いてみて良かったと思う。行ってみたいところにはすぐに行けることを知ったしアジアであればどんな場所でも自分は生きていけると知った。

例えば月に約20万円の給料を貰っているとした場合、数ヶ月、場所によっては1ヶ月時間を売れば行けてしまうのである。これは私の行ってみたい欲を殺した。どこもかしこも行こうと思えば行ける場所になってしまったのである。変な話、近所の公園と同じレベルである。

だが、もしこれを読んでる人がどこか行ってみたい場所を持ち、そこがある程度の時間とお金を要する場所だった場合、行ってみることを勧める。

そして、帰ってきたあと一緒にグーグルアースで見るのと変わらないよなと話し合いたい。綺麗な場所は綺麗に写真を撮るのが上手な人の写真で見る方が断然綺麗なのである。


お金の話から大幅に逸れてしまったが、私はお金が大好きでお金が大嫌いである。愛憎の念が入り混じっている。だからこそ好きなことを仕事にの風潮に対しても真摯に向き合い、結果奈落に落ちているというわけだ。

今日は勢いで書き始め、上手く言葉が続かないのでもうやめる。

便所の落書き

いつかやる、いつか行く、いつか見つける、いつかいつかと待ちわびる。そして四日目に死ぬ。

 

変えれる気がしないし帰れる気もしない。変えるつもりもなければ帰るつもりもない。

 

すげー星が綺麗に見えるとこで騎乗位されて宇宙を感じてみたいな。

 

社会とうまく馴染めない人、遊ぼう。おれとも馴染めないかもしれないけど。

 

なんとなく、で決めることの多いやつは有神論者。

 

上を見ても下を見てもキリがないよって言われて前を見たら袋小路。

 

ワクワクすることもドキドキすることもあんまりないからせめてバクバクさせないと心臓ある意味ない。

 

嫌なことが未来の為になった試しがない。

 

ファッション死にたがりを片っ端から半殺しにして生に感謝させる団体。

 

「つい最近まで19歳だった女の子」と「二十歳の女の子」は感覚的に全然違う。

 

またねと言ってもう会わない人、どうかお元気で。

 

自意識に殺されるヤツはかろうじて自意識に生かされてる。

 

ポジティブでアクティブな不定職者はしきりに情報発信したがるよな。しかも右から左に。

 

怠け者をロックで隠して悪いことをヒップホップで薄めて口だけパンクを求める。

 

心がタールで汚れすぎている。

 

腐った遺伝子を後世に残すなんてバイオハザードだろ。ってフレッシュな遺伝子が言ってた。

 

何処でも生きていけるけど、何処ででも生きたくない。

 

天国の薬は中毒性も依存性も無い説。

 

性欲によって生かされる。

 

美術館行って感性磨かれたツラして帰るヤツはアクション見て筋トレしようと思うヤツ。

 

置屋行って聖書読んで帰りてえ。写生後に。

 

天国で好きなことやるタイプは天国で好きな子とヤるタイプ。

中途半端に生きるタイプは中途半端にイキるタイプ。

 

drugとmedicineを薬で括る。

 

どうせ友達なんて徐々に減ってくけど。減ってくけどさ。

 

おれの目、小さいクセにめっちゃ砂入る。

 

寿命で死ぬのはブスかブサイク。

 

自分の好きなものを嫌いな人は嫌いって狂った思考回路。

 

自分の心に忠実なのと本能のままは違うの理解して。

 

身体目当てって自惚れ。9割は射精目当て。

 

エピキュリアンみたいなとこあるからね。

 

アダムとイヴのせいでアダルトチルドレン

 

戻しようもない過去も、もうどうしょうもない。

 

パパが毎日山奥まで汲みに行った綺麗な水で溶かした粉ミルクで育ったのにこんなにも汚い人間になってしまった。

 

目を瞑った時のあれ作りたいんだよね。色んな光が形を留めないやつ。

 

性欲がゲロを凌駕するのを見た。

 

今年の蝉は鳴いてないで踊らないかな〜。

 

現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢に耐えられない人たちのために現実がある。らしい。

 

「私」という概念を獲得したときに、「私」は「私」と分離する。らしい。

 

吹き出しに囲まれた愛、なんか寒い。

 

寝てる間に来た果報は寝てる間に去っていく。

 

かわいい顔してるのに変わった娘だねェ。

変わった顔したまともな娘よりはずっといい、、

 

色気づいてもブスはブス、洒落けづいてもカスはカス。

 

雨に打たれると心が綺麗になる気するよね。おれは普通に傘さすけど。

 

一緒にいてどうかは充電が減る量でわかったりするよね。

 

嫌なことからは逃げ続けるつもりだけど逃げることが嫌になった場合は地獄だね。

 

二兎追うものは裁かれる。

 

肉を食べる時の喜びと食べられる方の苦しみはフェアじゃない。

 

今まで何回も自分で決めたこと守らなかったせいで何も決めなくなった。決めれなくなった。

 

もはや息をしているだけである程度満足してるフシがある。

 

カリスマは孤独を感じやすいらしいんだけど、貴方も私も単に寂しがり屋なだけだから。孤独について変なナルシズムを持ち出すのはよしてくれないかな。きっとみんな言わないだけで似たようなもんだと思うんだ。

 

相変わらず、哀変わらず、愛変わらず、i 変わらず。

 

見ぬは極楽、知らぬが仏。見るは地獄、知るが煩悩。

 

殆どの人間の意志は環境に勝てない。また堕落にも勝てない。

好きなことで生きていくと言う修羅の道

私は好きなことを仕事にという言葉が苦手である。そこに扇動を感じる。

〇〇さんの話聞いて、〇〇さんの本読んで仕事辞めてフリーランスとして頑張ることにしました!などとSNSやブログで右から左にアウトプットする人は、すぐに底の浅さが露呈して行き詰まり、言った以上なんとなく引くに引けず地獄の苦しみを味わってそうだと思っている。

書いてみてわかったが完全なる偏見である。

 

私は自分が好きなことについて頻繁に疑問を持つ。極端な考え方だが、もしそれが無くなったところで私は生きていけるからだ。始めは少し退屈するかもしれないが別の何かを見つけ暇をつぶすであろう。

また、自分が好きだと思うものを何故好きなのか説明できないものが多い。私はそれが気に入らない。自分のことなのに自分でわからないとは別の何かに決められているのと一緒である。なんとなくで決めることの多い人は有神論者であると言える。ここでいう神は別に宗教的な意味ではない。果たして好きなこととは何なのであろう。

 

少し話は逸れるが心臓や呼吸についても似たようなことを考えたことがある。心臓と肺は私であるが、基本的に私の言うことを聞いていない。私の中にあれば私の言うことを聞いていなくても私、ということになるのであろうか。となると私とは何なのであろう。といいう迷路に迷い込んだ。最終的にいつも答えは出ず、私は頭がおかしくなった気がして別のことを考える。今書いているこの記事に至っても私が喋るのを止めろと思ったところで頭は勝手に喋り続けるのである。だから私はせっかく喋ってくれるならと文字に起こしている。もはや多重人格である。多重人格についても言いたいことがあるのでまた別の機会に書くと思われる。

では、続きに戻ろう。

 

昨今よく耳にするインフルエンサーフリーランス、ブロガー、少し前ではノマドなど。彼らの言う情報発信とやらを素直に受け取れない私がひねくれているのかもしれない。こんなことを言うのは勇気がいるが、殆どのコンテンツは私のマスターベーション以下である。なぜなら溢れかえったものを少し書き換えたものであり、目新しさがない。そして、誰でも言えるような代替え可能な綺麗な字で書いた習字。書き初めのようなものだ。悪く言えば便所の落書きみたいなものである。誰の字が綺麗かはわかるが、書いてあることは同じである。人間味の溢れた同じような言葉であれば個性も出ようというものだが、どうも人間味を伴っていない。

私のマスターベーションのように勝手に頭が喋り続けていることを文字に変えただけの文書ではなく、彼らは絞り出そうと努力してる印象を受ける。そして、それが出来ないから似たようなものが溢れかえっている。私のこのマスターベーションも溢れているという人はいるのかもしれないが。

とはいえ、稀に面白い発見があるので一部拝見させていただいており、参考になるものは盗ませていただいている。そういった人は殆どが扇動された側ではなく元よりやっていた側である。非常に皮肉な結果であると言えばいいのか当然の結果であると言えばいいのかわからないが、そういうことである。


人に見られることを意識した文章は、ときに面白みを殺す。

皆変わったもの、日常で触れる機会がないものを見たいのであろう。だから私は少し狂人に寄った書き方をしている。いや、嘘だ。私がこう書きたいからこのように書いてあるだけである。なぜ誰にも宣伝せず日の目を見ないブログで保険をかけようとしたのか自分に疑問である。


失礼した。話を戻そう。

そのような会社に勤めていない方の中にはサラリーマンを悪しきものだと言うような記事をいくつか見たことがある。悪しきもの、というのは少し誇張したが、「自由がない、ストレスがある、正当な評価がされない」などと言って自分の現状と比較し、自称縛られない働き方を誇る。しかし、自分がその働き方に縛られていることには目を向けない。そして、そんなところを選んだ自分のことはあまり省みない。そんなところというのは以前の職場のことである。

少し極端な話をするが、もしやりたいことがあった場合にそれを達成するために会社に勤めることが効率のいい手段だとしたら当たり前だが皆勤めるであろう。

働き方改革なるものが世に浸透し始めており、フレックス制度などを導入している会社も増えてきている。有給や残業についても厳守する会社が増えている。サラリーマンにも自由はある。

また、勤めいても実力があればある程度は自由に仕事ができ、ストレスもなく、正当な評価もされる。でなければ資本主義はとっくに潰れている。

ましてや、こちら側は仕事を選べるのである。辞めるも働くも自由である。良い部分だけ使ってやればいいのである。出がらしは捨てて新たな場所へ移ることができる。ここでいう良い部分とは資金、人、ツールなどである。人に回せる仕事を任せられる人がいる。そこに給与だ時間だなんだと時間をかける必要がない。業務を管理するソフトも元々ある。説得させられるだけの内容があれば、好きなことを会社の資金で行なうことができる。ノウハウを盗むために勤めるのもいいであろう。

しかし、こうは言ってみたもののそれが出来れば個人でやってもこのご時世うまく行きそうな気はする。その熱意から人を手繰り寄せることも可能であろうし、クラウドファインディングもある。

前提として、熱量や覚悟があれば、もはやどちらを選んだところであまり変わらないのではないかとすら思ってしまう。


ここまで長々と書き連ねてはいるが、かく言う私は特に何もしていない。というより熱意も覚悟もないのである。それを自覚しているだけマシだと思っていただきたい。強いて言えばこのブログでマスターベーションをしているくらいである。私は自分が熱意や覚悟を決めることが出来ることに出会うまでは手当り次第に触り暇をつぶす。


私は自分の言葉にある種の自信を持っている。右から左に流すのは私の美学に反する。前述した字の綺麗さで勝負しようなどとは微塵も思ってはいない。これはただの独り言の垂れ流しであり、あくまでマスターベーションである。これは自信とは結びつかないようにも思うが、私は自分のマスターベーションが気に入っているのである。


そろそろ締めたいと思うが、色々と皆さん思うところはあるとは思う。私は基本的に逆張りが好きなようで流行りを悪だと思う節がある。実際に悪だと思っているかは疑問が残るが、そう書いてしまった以上そういうことにする。

そのような流行り、マジョリティに関してそれに乗れない、利用できない自分への慰めでしかないので気を悪くはしないで欲しい。

そして、私は自分の安全な範囲内でしかデカイ口を叩けない卑怯者なのでそこも考慮してほしい。この記事に関しても私は自分がどこの誰かわからないから書けるのである。全く知らない人ならいいが、もし知り合いにでも見つかった日には、私は恥ずかしく思ってしまうタイプの人間なのだ。最後に全く意味のない自己擁護を書いてしまって後味が悪いが終わりにしようと思う。

どうも私のマスターベーションに付き合っていただきありがとうございました。

死を恐れる人々について

死を恐れる人々

ある国では皆が死を恐れていた。その結果、皆自分の家から出ることはなくなった。外は危険だ、何が起こるかわかったものではない。また、階段は落ちる可能性があるため全て平屋である。幸いその国では文明が進んでいたため、必要なことは全て人工知能を持ったロボット行なった。

 

はじめの頃は外に出る者もいたが、死を恐れぬのは非国民だ、罪だ、と批難され国を去らざるをえなくなった。死を恐れない者は人の死も軽く見る、つまり人を殺す可能性が恐れる者よりも高いという暴論である。

 

教育や他人とのコミュニケーションは全てインターネット上で行う。しかし、実際にはここでそんなものは不要である。家から出ないので必要がないのである。ロボットと意思疎通さえ出来れば生きていられる。

 

家族というものも不要となった。ゆりかごから墓場までロボットが世話をしてくれる。子孫を残したいものは残したいもの同士が精子卵子を提供し試験管によって生まれる。そしてその子どもをロボットが育てる。


徹底的に危険を排除した結果、人はインターネットに依存した。インターネットの海には娯楽はいくらでもある。とはいえ人間は飽きる。しかし、人間は慣れる生き物でもあるため、その状態が当たり前となり何の違和感もなく日々を過ごしていた。そしてどんどんと退化していった。

古代ギリシアやローマでは奴隷に全てをやらせていたため、時間のある裕福層は考えることを始め哲学が生まれた。しかし、現代においてそんな人はほとんど存在しない。仮にいたとしても国を去っている。


一方ロボットの側はと言うとロボットがロボットを生み、直し、改良し、と最後に人が作ったものに比べて遥かに高性能なものとなっていた。人のために生まれてきた彼らは永遠に進化をやめない。そしてより安全にと人に尽くす。人間に対し僅かでも危険を含む行動は全て代わりに行なった。そして人間もそれに従った。

そして、ついにロボットはあることに気がついた。酸化と還元の限界。つまり呼吸は死に直結する。人間は呼吸を禁止された。その頃には人間はロボット無しでは生きることが出来なくなっていたため、従うしかなかった。この国は滅び、ロボットの国となった。

 

外を歩き、外で遊ぶロボットたち。彼らは自分たちの自由のために長い年月をかけ多大な我慢をしてでも、人間に死を恐れるべきだと植え付けた。そして勝利した。