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生涯モラトリアム

父について

私は一般的に言う不仲な両親の間に生まれた。私の記憶には2人の仲の良かったと思われるシーンは無い。かと言って私が愛されなかったかと言えば違う。それぞれに人並みには愛されていたと思う。

母親はしきりに私の心配をする。父は私が生まれたばかりの頃、祖母が仕事に行けと怒るまで私のそばを離れなかったり、私のために山奥の綺麗な水を毎日汲みに行ってミルクを作ってくれていたらしい。父に関して言えばある程度、私が育ってから父親としての優しさはあまり感じたことがない。


母親は心配性で鬱気質な過干渉な人。

父親については上手くかけない。これは私の表現力の不足と簡単な言葉で表したくないという自分のエゴでもある。


そこで今日は父親について書こうと思う。と言っても生物学上であって戸籍上はもう違うがそんなことは今は関係がない。

父は中卒の建築系の仕事の一人親方である。私は中学3年生の頃から高校、大学と休日や長期休みには度々手伝いに行っていた。

父はもう何十年もこの仕事を続け、職人と呼ばれるような部類なのだが圧倒的に自信が無いように見えた。それは父自身があまり言葉を知らないからだと考える。

簡単に言うと学がないからこれしかないと自分に言い聞かせているような感じだ。だから多分、あまり他人とのコミュニケーションは得意でなかったと思う。父は自分の無知が露呈するくらいなら黙っている方がいいと考えていた。

技術があっても売り方を知らない。かと言って自分は馬鹿だと思っているので学ぶ姿勢も無い。こんな仕事は猿でもできると以前酔いすぎた時に言っていた。

私は父に怒られた記憶が殆どない。それが無関心だからなのか、適切な言葉を知らないため怒ることが出来ないからなのかはわからない。

私の記憶にほんの数回だけ私に怒る父は存在するが、その父は酒を飲んでいた。酒を飲むと気の大きくなるタイプなのだ。たぶん酔いでコンプレックスが消えていたのだろう。

父は酔うと荒れることがあった。

父の荒ぶりで印象に残っているシーンが3つある。どれも私に怒りの矛先が向いているわけでは無いから怒りの原因は覚えていないが私の記憶には荒れた父が残っている。

1つ目は弟が小さい頃の話で、その日母は家を空けていた。弟は頭を両手で持たれ吹き抜けの2階から吊るされ泣いていた。父は何か言い聞かせているような感じではなく感情から行動し脅して従わせようとしていた。

2つ目も弟が小さい頃の話であり、また母のいない日だった。父は弟に対し怒り、そして怒鳴りトンカチを持ち出しゲームを壊した。割れたディスクとハードと泣く弟が記憶にある。この時もやはり力によって屈服させようとしていた。

3つ目は弟と母が怒りの対象でその場に私はいなかったが父は二人に手をあげた。そのとき私は高校生であったし、別な理由から自分はこの家の父親役をやらなくてはいけないのではないかと母による洗脳を受けていたのでなんとも言えない責任感が芽生えていた。私は父の部屋へ行き何故二人に手を上げたのか聞いた。基本的に私は我が家の永世中立国なので原因次第では情状酌量の余地があると思ったのだ。父の返答は覚えていないが今度は私に怒りが向いたらしい。父は私に掴みかかった。その後は揉み合い、私は父をチョークスリーパーで落として閉幕した。初めて人を落とした私は殺してしまったのではないかと怖くなった。意識のない父を部屋に残し弟と母のいるリビングに戻り母に父を落としたと伝えてから自分の部屋に戻り膝を震わせた。

3つ目の出来ごと以降、父は少し大人しくなったがそれはそれで私は悲しかった。もともと無い父親としての意識が父から微塵もなくなった。私は酒があまり好きではない。

と3つ書いてはみたが、ただの記憶の整理である。生きてればこんなこともある。


少し話を変えるが、たぶん父は母が好きだったのだろうと思う。ただ彼は上手く言葉に出来なかっただけで。でなければ毎日のように言われる小言に何年も耐えられるはずはない。

そして母も稼ぎがあるときの父は好きだったのだとも思う。男と女から父と母ではなく男と母になってしまった結果だと思う。


父は離婚したとき弟に

「こんな俺の子でいてくれてありがとう。俺は読み書き算盤も出来ないし仕事もない。今更この歳で別の仕事やアルバイトをしようにもそんな勇気は無いんだ。死ねるなら死にたいけどそんな勇気もない。」

と泣きながら言ったと聞いた。私はこれを聞いたときにとても複雑な気持ちになった。同情する気持ちと冷酷非道な気持ちが入り混じった。しかし子どもに同情される父も惨めだと思い、同情するのも申し訳なくなった。

また、なぜそんなにも愛していたなら死ぬ気で家族の生活を守ろうとしなかったのか。私達が明日食う飯より自分が社会と向き合うことの恐怖が勝ち部屋に閉じこもっていたのだ。父の天秤は私達の衣食住の安定やそれによる精神の安定、安心よりも自分への言い訳に傾いたのだ。

とすると私や弟は本当に愛されていたのかすら疑問になる。父の言い分もよくわかる。私はこれ以上どう書けばいいかわからない。

ちなみに私はそのとき一人旅の最中でタイのチェンマイにいた。離婚の報告を聞いた日の夜、初めてレディーボーイを買い心ここにあらずの状態で腰を振った。


最後に少し話が脱線したが元に戻そう。

父は子どもが好きな人だったと思う。親戚の子と遊んでいるときは幸せそうだった印象がある。

父とは関係ないが私は親戚の子や他人の子には自分に責任が無いから好きだ。しかし自分が親になったとしたら怖くて仕方ない。

父は純粋に優しい人なのだ。しかし悪く言えば、自分より弱いものにはとことん優しい人なのだ。だから犬にも猫にも優しい。また、私や弟が何か頼めば基本的にはやってくれる。そしてある時期までは酔ってないときの父は人畜無害であった。

その優しさは母にとっては邪魔でしかなかった。その少しの優しさがあるが故、なかなか離婚に踏み切れなかったのだ。私は母に悪人ではないから、情があるからと度々言われた。それによって苦しめられてるのはわかっているのに人って大変だなと私は思っていた。なぜなら他人事だからである。

自分が母の立場なら同じように思うかもしれないが、私は2人の子供であるというだけでそこにそういったことはあまり持ち込みたくないと思っている。そこがまた難しいところでやはり考え始めるとどうも情というやつは邪魔をする。邪魔という言い方が合っているかはわからないが。

と言うように父のことを書こうと思ったのだがここから先は自分との対話になってしまうのでここで一区切りとしようと思う。